静止 生死-kismet-
────其処は昏かった。
網膜に映るのは石造りの壁ばかり。
すえたような青臭い匂いが鼻をつく。
金属の擦れる重苦しい音が耳に届く。
“────────”
獣のような息遣いが聞こえてくる。
熱っぽい吐息が肌を撫でる。
澱んだ空気が、より重くなっていく。
“────────”
いくつもの目が私を囚えている。
粘りつくような視線が体を舐める。
腐敗した空気が、より深くなっていく。
誰かが私を揺らしている。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ゆらゆら、ゆらゆら。
体が揺れる度に、硬い感触が手足に食い込む。
咎なき罪の故に、無限の縛鎖がこの身を苛む。
頭を押さえつけられる。
体じゅうに絡みつく鎖がこの身を責める。
首が絞まる。
息が止まる。
そんなことを、誰も気にすることはない。
瞼を閉じた。
“────トラフィム、後がつかえてるんだ。早くしろ”
“まあ待て、急かすな”
“よいではないか。ひとりずつ済ませることもあるまい”
髪を掴んで引き上げられる。
顔が上がる。
瞼を開けると、下卑た笑みを浮かべる男の顔があった。
────なんて、醜い。
口腔が一杯になる。
息が出来なくなる。
誰かが私を揺らしている。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ゆらゆら、ゆらゆら。
ゆらゆら、ゆらゆら。
“流石は姫君と言ったところか。声ひとつ上げぬか”
“お父上のためか。どうしてどうして、なかなか健気なものではないか”
“だが、それもつまらぬな”
ばちん、という音が聞こえる。
わずかに遅れて肌が熱くなる。
やがて、熱は痛みとなってこの身を灼く。
ばちん、ばちん、ばちん。
ばちん、ばちん、ばちん。
ばちん、ばちん、ばちん。
ばちん、ばちん、ばちん。
“その辺にしておけ、ヴァンデルシュターム。姫君の肌が朱に染まっているではないか”
“これは気付かなんだ。この淫乱にかどわかされて思わず嬲ってしまったわ”
“罪深きものよなあ、姫君よ”
痛いのか、どうか。
それさえも分からなくなる。
そんなことはどうでもいい。
────私は、ただここにいればいいのだから。
お父様がそれをお望みなら、
私は、それを叶えるだけだ。
“────フン、まるで人形だな。いくら責めても顔色ひとつ変えぬ”
“リィゾ、貴様もどうだ? 人形でも抱き心地はなかなかよいぞ”
“…………”
“つまらぬヤツだな、貴様は。
まあいい。我らが王の命だ。せいぜい注ぎ込んで孕ませてやろうではないか”
眩病に塗れて、時間らしきものを観測する。
だが、そんなことに何の意味があるのだろう。
いつか、終焉が来るのか。
いつか、終焉が来るのか。
いつか、終焉が来るのか。
終焉は、何を意味するのか。
「────────」
それでも、思わずにはいられない。
────いつか、迎えに来てください。
ねえ、お父様……。
────其処は昏かった。
天が近い。
山間に浮かび上がる夜空は浅く、近く。
手を伸ばせば届いてしまいそう。
「────────」
頭上には天蓋のように空を覆う月。
暗闇を払い、眩病を求める。
故に、昏い。
「────────」
蒼く冷たい月の光は数多の星々を抱く。
輝ける瞬きは地に堕ちて、
天の主たる月だけが其処にいる。
月は其処にいて、私は此処に在る。
誰も必要とせず、
誰にも必要とされず。
ただ、此処に在る。
私には存在の意味がない。
私は、たったひとつの理由のために生み出された。
それでもよかった。
自分の存在する意味があるのなら、自己なんて必要なかった。
それなのに。
その理由さえ奪われた。
自らを無価値と────停止してしまったのだと認識してしまった。
存在している価値がない。
それなのに、私は存在している。
だから、これっぽっちも生きていない。
私にとって、現在は死んでいく過程だ。
生きながら腐っていく。
緩慢に。
怠惰に。
無様に。
それは、ひどく悲しくて。
どこか、嬉しかった。
手を伸ばす。
指先には大きな月。
届くことのない、果て。
幾千の時を越えても、私は止まったまま。
時間だけが流れていく。
私は、ただ此処に在る。
いつまでも、いつまでも。
────あるいは。
「……いつか、お父様が迎えに来てくださるまで」/静止 生死・了