月姫、空の境界二次創作作品

   終落


第一話



 雨が降っていた。
 天からの恵み。しっとりと大地を濡らすそれは世界を潤し、そして儚く消えてゆく。
 そんな、雨が降りしきる夜のこと。街から離れた郊外にある山道。高く生い茂った樹木の葉によって覆われ、ここからは空を見ることは叶わない。それほど鬱蒼とした森。本来ならば、日付も変わろうかというこの時間帯に人がいるはずもない。
 だが。空気に溶けるようにして闇から染み出してきたその声はそれを否定していた。
「世は果敢無く、人は孤独――いつの夜もそれは変わらないな」
 そこには。少年がいた。険しい山道を黙々と歩いている。無造作に整えられた黒髪からはぽたぽたと雨粒が流れ落ち、濡れている。周囲は暗い。夜によってもたらされた暗闇に紛れるように、全身を覆う漆黒のボディスーツを身に着けている。ただ、彼の瞳だけが同じ漆黒にも関わらず、静かに輝いていた。
「魔は闇に生き、光を拒む。人は光の下に生き、闇に恐怖する」
 朗々と語るその台詞は、どこまでも闇に浸透していくようだった。雨音が彼の声を消そうとしても、その声は不思議とはっきり辺りに届いていた。
「おかしなものだ。魔を退ける者である我らは闇に生き、光の下では生きられぬ。それでいて、あくまで人であることを主張する……ああ、全く以って矛盾」
 そして、無音。いや、雨音は変わらず止む気配はない。だが、それでも無音。彼の周囲だけ、完全なる無音が支配している。彼の雰囲気が、世界を支配しているかのように、そこはまさしく静謐であった。
 もはや、泥としか言いようのない山道を彼は音を立てずに歩く。どういうカラクリなのか、彼は水溜りに足を無造作に落としても、それは変わらなかった。
 雨は止まない。この季節、夜の空気は寒い。それが雨によって余計に冷え込む。だが、少年は何ら痛痒にも感じていないようだった。ぴったりと体の線を浮き彫りにするようなボディスーツは如何なる保温効果があるのか不明だが、彼は身震いの一つもすることなく、ただ黙々と歩いている。全身はすでに雨によって満遍なく濡れている。それすらも、彼は気にしていないようだった。
 あらゆる意味で、彼は超然としている。時折、独り言を呟くのも、不思議とおかしく思えない。ただ、一枚絵のように彼は周囲に溶け込み、その台詞すらもその絵に描きこまれる一筆になり得ていた。
「我々は人でありながら魔。退魔でありながら魔。殺しあうほど憎んでいるのに、同じ生き方しかできぬ」
 ぴたり、と。彼は止まった。彼の目の前には崖がある。その下にはアスファルト――峠を通る車道があった。
 それを見下ろし、彼は笑う。どこかおぞましく、そして美しく。くつくつと小さな音を立てて、彼は笑った。
 その場に人がいれば、違わずこう思っただろう。彼は死神と――
「不憫なものだ。それでも、我らは違う生き方を選ぶことができぬ。自己の存在を殺すことによってでしか示すことができない。この上なく哀れだと、そう思わないか――巫淨の者よ」
 彼の呟きは、最後だけ雨音にかき消された。それはまるで、これから起こる出来事を暗示しているかのようであった――

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 日付も変わろうかという深夜十一時半。一台の車が三咲町郊外の峠道を走っていた。
 その車内には壮年の男性が運転席に座り、同じくらいの歳の女性がその横の助手席に、そして後部座席には中学生くらいの少年が一人座っていた。
 だが、家族と思しき関係ながら、その車内には暗い雰囲気だけが漂っている。会話もなく、ただ重苦しい空気が立ち込める車内を虚しい時間だけが変わらずに過ぎていく。
 如何ほどの時間が経ったのであろうか。それまでじっと沈黙を保ったまま運転していた男性がぽつりと呟いた。
「……あの子の――限られた少ない時間の中で、私たちにはどれだけの事がしてやれる? ……私には分からんよ。きっと、あの子の望むモノはたった一つしかないのだから……」
 その言葉はあまりにも痛ましい口調によって紡がれた。男性の言葉は後半、震えるようにして無理やりに出され、そして最後は呟くように消えていった。
 そんな、彼の言葉に、助手席に座っていた女性は目に見えて体を震わす。男性の呟いた言葉を拒絶するように、首を激しく左右に振りたくった。
「――やめて! あの子は、霧絵は――っ!」
 痛切な叫びが車内に響く。そのまま、彼女は両手で顔を覆い、泣き出してしまった。
 その様子を横目で見て、彼は重く溜息をつく。搾り出すようにして、謝罪の言葉を口にした。
「……すまない。一番つらいのは霧絵だというのに……」
 そんな二人の様子に、後ろに座っていた少年もやりきれなさを滲ませて言葉を口にする。
「なんで、姉さんばかりがこんな目に会わなきゃいけないんだろう……こんなの、あんまりだ」
 そんな、少年の言葉に、女性はさらに悲痛に泣く。あまりにも不幸な、愛する子供の教具に、母である彼女はただ涙した。
 泣いている彼女を慰める術を知らぬ――いや、慰めることのできない二人は、沈痛な表情で無言のまま、彼女が泣き止むのをただ待つしかなかった。

 暗闇の中。車はただ重苦しい雰囲気に包まれながら、雨を受け、走っている。頼りなげに進む道を照らすライトは、彼らの家族の行く末を暗示しているようにしか見えなかった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「来たか……」
 車道脇の崖の上から、少年は遠くに見えるライトの光を見てそう呟いた。おおよそ、一キロほどで車は少年がいる崖下の道路を通過する。今まで、全く微動だにしなかった少年は突然、信じられない行動を起こした。
 七十度はあろうかという急勾配の斜面をいきなり滑り降りたのだ。土砂崩れ防止のために整備されたデコボコだらけのコンクリートの斜面を駆けるようにして降りていく。一歩間違えば、足を取られ、大事故になるのは必至。だが、彼はむしろ危なげない様子で一気に崖下まで降りていった。
 最後に、とんと軽やかに着地し、彼はさらに奇妙な行動に移った。そのまま、体をコンクリートの地面に伏せ、視線だけを車が来る方向――右方向へと向ける。そして、そのまま彼は息すらせずに、動かなくなった。
 車が少年のところまで来るのはあと一分ほど。その間、彼は一歩も動く事はなかった。

 そして、車がやってきた――

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 ちょうど、カーブを曲がりきって、下り道に入ったところだった。唐突に、道路の真ん中に人影が現れたのは。
「……くっ、お!」
 慌てて、彼はブレーキを踏んだ。慣性の法則によって、凄まじい勢いで前に圧力がかかる。男性だけでなく、女性と少年も、その勢いに短い悲鳴を上げた。
「きゃあぁっ!」
「うわあっ!」
 車はけたたましいブレーキ音を響かせ、人影の目の前で辛うじて止まった。濡れたアスファルトには二条のタイヤのスリップ跡が爪痕を残している。もう少し、男性のブレーキをかけるタイミングが遅ければ、間違いなく惨事になっていただろう。
 一瞬にして噴出した冷や汗を拭い、彼は女性と少年の姿を見た。どうやら、痛みに呻いているが、大事には至っていないようだった。心の中で安堵の溜息をつきながら、彼は前に突っ伏していた体を起こす。
「くそ……」
 シートベルトが男性の体を圧迫するように締め付けている。その痛みに顔をしかめながら、彼はガラス越しに前を見た。そこには、ライトの光を受け、突然現れた状態のまま佇んでいる人影の姿が見える。
 歳は高校生くらいであろうか。無造作に纏められている短い黒髪、闇夜よりもなお黒い服、そして何より――ライトが当たらずともはっきりと分かるであろう、蒼い瞳。
 何故か。男性はその姿を美しいと思ってしまった。唐突に、一つのフレーズが思考に浮かび上がる。
 ――彼は。夜にのみその姿を見せる天使……それも、天より堕ちた堕天使、と。
「…………」
 ぞっとする考えだと、彼は思った。だが、同時にライトに照らされている少年の姿を見て、納得している自分も確かにある。そのまま、彼の姿を見続けていれば、気付かぬうちに時が経ってしまいそうだ。
 そんな男性の様子をよそに、少年は今起きた事に対し、何の反応も見せないまま、ゆっくりと車に近寄っていく。極めて普通に。それ故に不自然と。
 近づいてくる少年に対し、男は窓を開けた。無論、何を言うか聞くためである。だが、少年の口から漏れ出た言葉は、彼の予想だにしない言葉だった。
「……巫条家の方々だな?」
「――え?」
 彼が、その言葉を不審に思った次の瞬間。半分ほど開いていた窓の外から、一筋の銀光が車内を通過した。
「ひぅ――」
 それが何なのか、男性が知る前に助手席に座っていた女性の頭が不吉に跳ねる。続いて、ばしゃりと窓ガラスに飛び散る赤い液体。女性は、何の意味ももたない奇声を上げ、絶命した。
「あ、あ――あぁぁぁっ!」
 前の助手席に座っていた女性――母親の無残な姿を見て、少年はただ叫び声を上げるしかなかった。止まることなく、吐き出される叫び。が、それも次の瞬間には唐突に終わりを迎えた。
「――かふっ」
 がくんと頭が揺れ、そのまま彼は動きを止めた。気がつけば、後ろのドアは開け放たれ、外にいた少年が後部座席へと侵入していた。
 そして、恐ろしいまでの手際で、いつの間にか手に握られたナイフを用いて、流れ作業のように咽喉を切り裂いたのだ。挙句、殺害を確実にするために、心臓へナイフによって一撃を加える。
 と、そこまで少年が動いたところで、ようやく男性はたった今、起こった出来事に反応することができた。慌てふためき、声を上げる。
「なっ――な――」
 彼は、周りで起きた凄惨たる殺戮に思考を停止せざるを得なかった。どうして、なんで――そんな思いばかりがグルグルと頭の中を駆け巡る。逃げることも、立ち向かうこともできずに、彼はただ呆然とそこに座っているだけしかできなかった。
 一方。一瞬にして二人の命を奪った死神の如き少年は、なんら表情を変えることなく、ゆっくりと男の座っているシートの後ろから右手を回し、男の咽喉を掴んだ。そして、左手はナイフを掴んでおり、そのまま音もなく彼の首元に添えられた。いっそ、優しい手つきと言えるほどのその動き。そして、彼はその状態のまま、人殺しをした人間とは思えないほど優しい声音で男に語りかけた。
「……巫条家が「あの」久我峰と繋がっていたことはすでに調べがついている。それにより、財を成したことも――だが、それ以外にも繋がっていた家があるはずだ。その家の事を教えていただきたい」
 その言葉に。男性の頭は急速に覚醒した。今、起こった出来事が全て誰によってもたらされたか、彼には覚えがあった。
「ま、まさか――お前は――」
 その言葉を口にした瞬間。ゴリ、と鈍い音が車内に響いた。右手から肘まで、一気に電撃のような激痛が走る。その激痛に、彼の意思とは無関係に呻き声が上がった。
「うぎぃぃっ!」
 少年は、あっという間に男の小指を掴み、そのままへし折ったのだ。容赦なく、一瞬にして、彼の小指は本来ありえない方向へ曲がってしまった。そして、次の瞬間には再び少年の手は彼の首に戻っている。信じられないほどの手際だった。
「下らん詮索はするな。さあ、教えろ……あの家の事をな」
 その、冷たい口調で告げられた言葉を聞き、激痛に脂汗を垂らしながら、男は確信した。後ろにいる少年は間違いなく、自分を殺すであろう、と。そして、それを防ぐ手立てなどありはしないということを。自らの死期を悟り、彼はむしろ冷静になっていた。震える体は抑えることはできないが、それでも頭だけは不思議とはっきりとしている。だから、今できることを彼は考えた。
「……わ、分かった。私が知っている事を教える。だが、私からも言いたいことがある」
 彼にとって、今できる精一杯の賭け。車内で無残な状態となって事切れている妻と息子の死を悲しむより、男はこの世にたった一つだけ残っている心残りについて考えた。自分が死んでしまったら、天涯孤独の身となってこの世界に一人残してしまう、娘のことを――
「……いいだろう」
 少年は注意深く男を観察しながら、そう呟いた。だが、いつでもナイフは男の首を掻っ切れるようになっている上に、男性の首を掴んでいる手は一秒で絶命できるよう、急所を違わず押さえていた。男性にとって、もはや逃げ場などない。
「――で、お前の持っている情報はどんなものだ?」
 少年が再び口を開く。
 首筋に存在する、濃密な殺気に恐怖を感じながらも、男は気丈にも落ち着いて話し始めた。着々と近づく、死の予感を振り払うように。
「あの家――軋間家は今、あの悪名高き『紅い鬼人』の息子が当主代理として取り仕切っていることは有名だが……実は、近いうちに遠野本家に養子縁組されるという話がある」
「……それで?」
「恐らく、軋間は久我峰と組んで、実質的な権力者がいなくなった遠野本家を乗っ取るだろう。そうなったら、退魔の一族を根絶やしにすべく、動き出すのは間違いない」
 男がもたらした情報。それは、まさしく大事件を知らせるものであった。例え、一般人には関係のない話だとしても、確かにそれは恐ろしい情報であった。
 だが。その言葉を聞き、あろうことか少年は笑っていた。静かに、そして心底おかしそうに唇を歪めて。これから起こりうる未来に対し、子供のように楽しげに少年は笑っていた。
 だが、そんな事は男にとって、何の関係もなかった。彼の奇怪な反応に、大した感慨も思い浮かばない。だから、彼は目を瞑って、静かにこう告げた。
「……私が知っているはそれだけだ」
「そうか――」
 あくまで冷たく。そう少年は告げた。それでも、男性は怯えることなく、落ち着いた声でただ一つだけの事を少年に託す。
「娘は……娘だけは――」
「…………」
 男性の、独り言のような言葉は少年が左手を引いただけで、途中で途切れることとなった。次いで、死を感じさせる真っ赤な血飛沫が上がる。
 そして、車内の中には、男が最期に残そうとした遺言の残滓と、少年の息遣いだけが存在していた――

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 それから三十分後。車は激しい炎に包まれて燃え盛っていた。無論、そこには少年の姿などなく、炎に包まれた棺桶はただ、夜を照らしている――