命短し、恋せよ乙女。今日からこれが私のスローガンとなった―― あめあがり。うららかな朝日が教室に差し込んでくる。午前八時二十五分。二年三組の教室にはすでにクラスメイトたちの大半が集まっており、それぞれがグループを作って雑談に興じていた。至って普通の学校風景。授業開始まではあと五分ほどあるから、しばらくはこんな和気藹々とした雰囲気が続くのであろう。 ――普通ならば。 がらら―― 途端、教室の雰囲気が一変した。教室中の生徒たちが一斉にドアへと視線を移す。何故か、分かってしまう。このドアを開けたのが誰なのか――そう、その身体から滲み出る独特の雰囲気が生徒たちに教えるのだ。彼が来たことを。 「…………」 無言で入ってきた男子生徒。一身に受ける視線を物ともせずに自分の机へと移動する。その男子生徒の名は……七夜志貴といった。 しばらく、教室中が無言になる。何故か、彼が教室にいるとそこを中心にして空間が厳かになるのだ。彼が醸し出しているオーラがそうさせるのか、その佇まいが周りに影響するのかは分からないが――とにかく、今の教室は授業中よりもよっぽど静かになっていた。 もっとも、そんな雰囲気を意に介さない人物もいる。そして、そんなヤツはこのクラスにも僅か二人しかいない。 そのうちの一人が席に着いた志貴へと声をかけた。 「今日は早いな、志貴」 「…………」 目の前の席に座っていた人物は椅子の背もたれを抱え込むように座りなおし、志貴に挨拶をする。気だるげな挨拶が逆に親しみを感じさせるが、挨拶をされた方はちらりと視線だけでそれに挨拶を返した。 「珍しく朝から登校しているかと思いきや……機嫌が余りよろしくないようで。どうした、もしかして有間のところの娘にでも襲われたか?」 「――黙れ、シキ。朝からオマエの声を聞くと虫唾が走る」 シキ、と呼ばれた男子は大げさにのけぞってみせる。オーバーリアクションであるのはもちろん、その瞳は明らかに笑っていた。 「くくっ……どうやら図星みたいだな。まぁ、あの子も志貴のことを気に入っているみたいだし、役得だと思えよ。十年後には相当美人になるぞ、アレは」 「ガキは嫌いだ」 「可愛くないヤツだな、まったく……」 言葉の割には笑ったままのシキと、憮然とした表情――いや、いつも通りなのかもしれない――の志貴。同じ呼び名を持つ二人はいつもの授業開始前のヒトトキを楽しんでいた。 だが。 今日は何故か、それだけでは終わらなかった。ざわっ、と教室中がざわめく。話している志貴とシキのところに一人の少女が向かったからだ。まるで、死地に向かう戦友を見送るかのように、その背後には二人の女子生徒が両手を胸の前に組んで「ガンバレ!」などと小声で言っていた。 奇妙な緊張感が教室中を駆け巡る。少女が二人の所へと辿り着いた。 「ん?」 はじめに気付いたのはシキだった。訝しげに少女の方を向く。 「お、弓塚じゃないか。おはようさん」 気さくに話しかけるシキだったが、少女――弓塚さつきはそれに応える余裕はなかった。 「――――」 ぐっ、と両手が真っ白になるまで握り締めているさつき。傍から見れば、今から誰かに殴りかかるかのような力の入れ具合だ。だが、その視線にいる先の志貴は意に介さず、ただ目を瞑って授業開始までの時間を過ごそうとしていた。 ごくり。 誰かの唾を飲み込む音が教室に響いた――気がした。すでにシキも観客としてその場からこっそりと離れ、二人を見ている。無論、シキは面白そうだから、という理由で見ているのだが。 そして、ついに――さつきが口を開いた。 (――何を言うんだ!?) クラス全員の心の声。一糸乱れぬ思考に、並々ならぬ団結力を感じる。 「――――」 さつきの口からは今にも言葉が出てきそうだ。 (何を、何を、何を言うんだ!?) ギャラリーと化している周りは固唾を飲んで二人を見つめている。 そして。ついに、さつきの口から言葉が漏れ出た。 「やっぱり……無理だよ〜」 小声で、志貴に聞こえない程度の、情けない声で。 彼女が言ったのは、そんな降伏の言葉だった。 ズルゥッ! クラス全員のリアクションは概ね、そんな感じだった。パタパタと見送った少女二人の所へ戻るさつきを見て、クラス全員は思った。 (せっかく、お膳立てしたのに!) 「……む?」 一人、蚊帳の外であった志貴だけが異変にようやく気付き、不思議そうに目を開けて首を傾げた―― クラス全員の総意はこうだった。 ――我らがアイドル、弓塚さつきの初恋を成就せよ! あの、雨の日から数日。さつきが七夜志貴に恋をした、という情報――決して噂≠ナはない――は瞬く間にクラス内を駆け巡った。 今時、珍しいくらい健気なさつきの想いに対し、同級生たちが取った行動は――応援だった。その溢れんばかりの行動力を駆使し、さつきと志貴をくっつけようと画策したのだ。 無論、始めはさつき自身が嫌がった。自分の中でこの想いが明確ではなかったし、そもそも他人に自分の恋心が知られていたことが非常に恥ずかしかったから。だが、そんなさつきも友人達の巧みな話術により、気付いたときには前面バックアップを逆に頼んでいたりする。 と、そんなわけで――さつきはまず、「さりげなく志貴っちに挨拶をしよう!〜ファースト・コンタクト編〜」という、ミッションを行うことになったわけである。 そして、結果は……言わずもがな。目を瞑っている志貴には近づき難く、挨拶など夢のまた夢であった。 クラスメイトたちは一斉に溜息をつき、そしてさつきの奥手加減に前途の多難さを否応なしに自覚したのであった。 「はぁ……さっちんってば、もうちょっとしっかりしてよね」 「……うう、ゴメン」 「まぁまぁ。昼休みもあるし、チャンスはまだあるから……さっちんも次は頑張ってね」 「うん……頑張るよ」 教室の隅で話し合う三人。さつきは申し訳なさそうに項垂れている。 「ま、当分はあんな感じだろうな」 「ああ。さっちんは色恋沙汰に疎いし」 「っていうか、平気で七夜に話しかけられるのって遠野と乾しかいないだろ」 「そうだな。アイツ、妙に怖いオーラ放ってるもんな」 こちらは離れた席で話している男子生徒たち。しみじみと語るその背中は妙に達観した様子である。 「くっくっく……久しぶりに面白くなってきたな。乾と去年の文化祭で暴れた時以来か、こんなに楽しいのは」 そして。クラス内の様子を見ているシキ。 様々な思惑が志貴とさつきを中心に渦巻いていた。 「お早うございます……おや、今日はみなさんどうしました?」 午前八時三十分きっかり。始業の合図と共に国藤教諭が教室に入ってきた。 そして、今日も授業が始まる。今までとはちょっと違った、けれど、幸せな日々が。 そして。滞りなく時間は進んでいき――昼休み。さつきは朝の挽回をしようと手に包みを持って意気込んでいた。 「……頑張って!」 「応援しているからね!」 「フレー! フレー! さ・っ・ち・んっ!」 「くそっ、羨ましいヤツめ! 俺がヤツだったらっ……!」 外野の声を懸命に無視し、さつきは志貴の元へと向かう。 「あ、あ、あの……」 蚊がささやくような小声で志貴に話しかけるさつき。ちなみに、さつきが志貴に話しかけるのはこれが初めてだったりする。偉業達成の瞬間。 ――ただし、二人の距離は三メートルほど離れており、しかも間にはシキが立っていたりしたが。 「お、弓塚。その包み、もしかして弁当か?」 シキは分かっていながら、さつきに聞く。志貴も珍しくその会話に気を惹かれたのか、さつきの方を見た。 その瞬間。 さつきの頬が瞬間湯沸かし器のように真っ赤に染まった。 「あ、わ、わ、私っ……!」 最早、完全にパニック状態に陥ったさつきは、訳の分からない思考のまま、条件反射的に喋り始めた。 「と、遠野クン! このお弁当、上げる!」 ばっ、と残像が出そうなほどの勢いで両手に抱えていた弁当箱を渡し、次の瞬間には走り去っていた。まるで、辻斬り。流石のシキもこれには呆然とするしかなかった。 「……って、そりゃないだろ、さっちん」 教室中が呆然としている中、やっぱりいつも通りの志貴は一言。 「……む?」 やっぱり、当事者であるはずの彼は一人、蚊帳の外であった。 あっという間に――放課後となった。あの後も、何かとさつきは志貴とのファースト・コンタクトを試みようと悪戦苦闘としたが、いずれも失敗に終わっていた。挙句、さつきは五、六時間目には体育の授業中に足を挫き、今日の部活も休むこととなった。幸い、怪我は大したことがなかったが、さつきとしてみれば、今日は散々な一日であった。 「はぁ……こんなんじゃ駄目だよ……」 とぼとぼと夕暮れ時の道を一人帰るさつき。哀愁漂うその姿は、青春真っ盛りの少女とは到底思えない。 「はぁ……」 幾度目になるか分からない溜息をつく。地面に伸びる影もどこか、寂しげであった。 「はぁ……」 さつきは横断歩道で信号が青になるのを待った。昨日まではやがて来る明日を楽しみに待って、友達と帰っていた道。それが、今日はやけに暗く感じられる。まるで、自分がお先真っ暗な道を歩んでいるようで―― 青になった。半ば無意識のまま、さつきは足を前に踏み出した。 キィィィィィィッ! 途端。さつきの耳に、つんざくようなブレーキ音が入ってきた。驚いて、さつきは横手を見る。 「えっ!?」 ――トラックだ。明らかにスピードが速い。運転手の顔が見え、その顔は驚愕の表情に彩られていた。 「――――!」 何がなんだか分からない。 死ぬ? まさか、こんな何でもない日常の中で―― 様々な思考が一気に脳内を駆け巡る。イ天までの思い出と共に、さつきの心は驚きのまま、停止した。 そして、次の瞬間にはトラックはその暴力的な速度のまま、さつきにぶつかる――はずだった。 だが。 「閃走――――」 声が、聞こえた。さつきの耳が、しっかりとその声を捉えた。朗々と、けれど絶対の意思を篭めた、力強い声。 ――ドゴン! ――ザァァァァァッ! 何かがぶつかる音と。 何かが滑る音。 さつきは身に訪れるはずだった衝撃がいつまで経っても来ないことを不思議に思い、いつの間にか瞑っていた目を開けた。 「……え?」 その視界には。 微かに汗ばんだ様子の志貴の顔が映っていた。 「……え?」 困惑する。さつきは混乱した頭で今、どういう状況なのかを考えた。 トラックが迫ってきて、自分は避けられなくて、ぶつかる瞬間に目を瞑って―― 拙い思考の羅列はそこで一旦、途切れた。続いて、今さらのように身体が震えてくる。 そんなさつきの様子を一瞥して、志貴が口を開く。 「――大丈夫か?」 優しくはなかった。志貴の言葉はあくまで確認のために発せられたもので、さつきを心配したというよりは、助けた対象者の異常を探す、という意味合いだった。 だが、それでもさつきは心に広がる何か≠抑えることができなかった。言うなれば――それは恋の錯覚だったのかもしれない。 「うん……大丈夫。ありがとう、志貴クン――」 さつきはどもることも赤面することもなかった。ただ、素直に自分の気持ちを伝えることができた。 「――そうか」 相も変わらず、短い返答。だが、さつきは気にならなかった。とびっきりの笑顔で、「ありがとう」の意味を篭めて言った。 「うん!」 翌朝。いつものように学校は始まる。さつきが登校すると、クラスではいつものように雑談に興じているクラスメイトたちがいた。 「おはよー」 「さっちん、おはよーさん!」 「おはよー、さっちん」 「おっはよー!」 「おはよう、みんな」 いつもなら、そのまま友人達と話すさつきだったが、今日は違う。 ――命短し、恋せよ乙女。 これからはそれがさつきのスローガンなのだ。 「おはよう、七夜クン。昨日はありがとう」 「……ああ、おはよう」 親しげに志貴へと話しかけたさつき。そして、それに無愛想ながらも挨拶を返した志貴。 クラスメイトたちはたった一日で好転した二人の関係に呆然とするしかなかった。 「……何が起きたんだ?」 「……さあ? 大方、さっちんが志貴にコロリと騙されたんだろ」 昨日休んでいたせいで訳が分からない有彦の言葉に、シキは幸せそうに話しているさつきを見ながらそう言った。 梅雨は明け、いよいよ季節は夏を示す。 さあ、今年だけの特別な夏を過ごそう―― |